モラハラと離婚してから数年/鬱と生

こんばんわ。上杉です。
今の状況と今の私が考えついた生きる方法を少しお話しします。
あまり興味がない方は飛ばして下さいませ。

最近、とある会社勤めと、自分の事業を同時進行でしていたろころ、
勤め先と揉めまして事業だけに専念している状態です。
そんな日々を送っていたところ鬱が再発、動く気力がなくなり
そく、仕事を停止し今この文章を書いています。

そうです。収入的にも精神的にもやばい状況です。
モラハラと別れたからってそう簡単に人生は変わるものではありません。

世の中そんな甘くないですし、理不尽なことも山ほど降りかかってきますし
傷つけられることもある。

しかし大きく変わったところがあります。それは私自身に
「我慢がきかなくなった」ことです。

どんなことでも、誠心誠意持って努力し立ち向かえばなんとかなると
燃えていた私はもうありません。

大概努力は身を結びませんし報われません。
人より頑張ったからと言って認められませんし(人は見ているというけれど自分のことにしか興味ありません)、誰も褒めてくれませんし、それが当然かのように扱われます。
そのことを身をもって知っています。
自分を犠牲にして、人に尽くそうとしても 相手はそのことに気づきません。
尽くそうとする相手を下にみる輩だっています。
私のことを大切に扱わない相手に歩み寄る必要はありません
即効縁をきります。
私の大切な時間を嫌な人のために使いたくありません。
と言っても社会に出ればある程度の我慢は必要だし・・・と言われそうですが
もう散々我慢や理不尽さ辛さは味わい尽くしました。
私はもういいです。

体調が悪ければ我慢せず、仕事を停止しますし
後先考えつつ辞めます。もちろん自己責任です。誰のせいでもありません
自分が我慢したくないからしないだけです。

耐え忍ぶことを美学としていたあの頃のブラック企業生活、モラハラ生活は
私に鬱という病気を残していきました。
その環境から離れた後も、沼の底に落ち、這い上がれない状況が
何度だって訪れます。今もそうです

今の状況に至った経緯は、モラハラ館から一緒に脱出してくれた息子が
もと配偶者のように、些細なことで本当に取るに足りないことで怒鳴ってくることが続いたからです。

怒鳴るというか発狂です。その姿がもとモラハラ配偶者そのものです
せっかくモラハラと離れたのに、またも繰り返しです。
そしてその息子と関わる人の人生が、私のように歪んでしまわないように
親としての責任で、この子を世間から隔離しなければなりません。
幸いなこと?に18歳から今に至るまでおよそ5年間引きこもっています。
就職もしようと面接を受けたりしましたが全て断られたようです。
精神科で「自閉症」の診断も受けたようです。

彼が言うには「お母さんは境界性パーソナリティーの診断を受けてるんじゃない?
自閉じゃなく、人の気持ちがわかる上で、その態度は普通じゃない。
境界性パーソナリティーじゃないんならサイコパスだ!」と言ったんです。

私はもと配偶者をずっと「境界性パーソナリティー、モラハラ男」だと思っていました。
でもしかし子供が発達障害である「自閉症」の診断を受けたのなら
この子の父親も自閉症です。
人の気持ちがわからず、人を怒らせてしまい辛い思いもしてきたでしょう。
だからと言って私にしたことを考えると到底許せるものではありません。
しかし唯一の味方であると思っていた息子が私を、私が最も大嫌いな
「境界性パーソナリティー」だと言った。もしかしたら本当にそうなのかもしれない
複雑な感情が渦巻いて呼吸も浅く苦しくなり、動けなくなったのです。

もうこんなこと考えるの嫌だ。疲れた
頑張っても、状況を変えても、何年経ってもこうなんだから
いっそのこともうこの人生を終わらせたい。

その考えにあっさりと行き着くのです。
今はとても幸せで恵まれた環境にいると言うのにです。

どうして私はこんな罪悪感を持ちやすい被害者体質になったのでしょう。
生まれ落ちた時はまっさらなスポンジみたいな存在するだけで素晴らしい人間だったはずです。

親や学校の教育、そして環境にいることで次第に性格は作られていきます。
同じ環境、教育を受けていたとしても人に降りかかる状況は微妙に異なります。

教育では選ぶことは許されず、やりたくない状況下で、自動的に競わされ
そして点数づけをされ、順位、優劣をつけられていきます。

もともと得意なこと、そうでないものなんて関係なく
世間の作った物差しで計られ、性格は歪み
社会に放り出されます。

そこでまた競争、評価、管理、洗脳様々な方法で社会に適応できる人間に仕立て上げられます。
会社に、社会に都合のいい人間=経済活動において貢献できる人間に育っていくのです。
くだらない。
経済活動の波に乗っかることが人生なら、そしてそこでどれだけ経済活動に貢献できるかが
人を計る物差しだとしたらくだらないことです。

それぞれに『生』を与えられた魂を持った人間が
集合的無意識で押し付けられた感覚に違和感を覚えることは
おかしなことではないのです。

だから自分が鬱になり、こうやって症状が出ることもおかしいことではありません。
鈍感で人の気持ちに無頓着な人の方が、日々楽しそうに暮らしているのは少し羨ましいですが
本来なら私が自分自身に罪悪感を持つ言われわありません。

人間は良い悪いの判断を私自身も、相手にも下したがります。

どちらの性質が正しい、間違っているのではなくそういう事実が存在するだけです。
嫌なあの人も、出来事も、そこに良い悪いという概念はなくそうういう事実が存在するだけです。

モラハラにあった意味も、生きている意味も存在などせず
「モラハラにあっていた」「生きている」事実があるだけで理由なんてありません。

ですがそれをどう受け取るか??という現実は存在します。
なんでも物事に「良い、悪い」などという概念がないと考えると
変に悩む必要がなくなり、とても生きやすくなります。

ですが人間は感情の生き物
そんな達観した考えだけではいられるものではありません。
そこであまりに悩みの多い私がたどり着いた考え方があります。

それはコントロールできない感情と、思考の部分の脳を使い分ける方法です。
よくいう右脳、左脳を使い分けると言うやつです。

例えば
感情「息子の発狂が辛い、苦しい、どうしようもできない。疲れた。消えてしまいたい」
左脳「私が悪いわけではない。彼は私とは別の人格。またもと夫とも。彼には彼の人生がある。私にどうこうできる問題ではないが地域の引きこもりセンターと連絡をしてどう接すればいいか
地域や人との関わり方を学んでいくには何をしたらいいか相談してみよう。痛いことが嫌、死ぬことができないならこの世から消えることはできない」・・・と理論的に考えます。

脳みそをその2つの使い方をすると同時にまだやることがあります。
それが自分を大切にすることです。
自分が好きなことをしてみることです と言っても何をすれば良いかわかりませんよね。
人によって様々なのですが私が最も良かったのは
・大好きなシャンプーで大好きな香りを味わいながらシャンプーすること
・自然に触れること(海を見にいく、梅を見にいく、お天気が良かったらお日様を浴びてみる)
です。
ただ単にそれらのことをするのではなく
気持ちい、良い香りだな、暖かいなと言う良い感情を5秒以上意識的に味わうことです。
こんなことで、本当に気分が変わるし、体も心も軽くなります。
自分の好きを見つけておいて
いざという時やってみてください。ものすごくおすすめです。

自分の扱い方を知り、自分をコントロールし、心地よくそれを使い分けられるようになることが
生きやすくなる方法だと私は思います。

昔、このブログでは「感情」の部分ばかりにフォーカスして
同じ話を繰り返し、ぐるぐる思考の渦の中に入る仕組みになっていましたが
最近の私はこうやって、右脳、左脳を行き来し、そして行動し
自分の取り扱い方をマスターしていってます。

この方法は実は事業構築の仕方を
自分を構築する方法に置き換えてみたやり方です。
事業を構築する方法がまさか自分を構築する方法に置き換えられるとは
思ってもおりませんでした。
勉強って大事です。
自分が素晴らしい優れた人間だと思っているモラハラのあの人は
一生こんな勉強をしようとは思わないし、変わらないのでしょうね

クソはクソのまま じえんどです。

最近の私は、調子が悪いながらもこんな感じです。
心はぐしゃぐしゃにされてもこうやって生きている間はいくらだって蘇ります。
少しでもこのブログを見てくださる人の心が楽になりますように

上杉めいでした。

ご感想、近況などコメントいただけると嬉しいです。

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